快適さと引き換えに失う...

地下鉄の乗っていて思った。
地下鉄だけでなく、あらゆる鉄道機関でいえることですが、
車両間移動時、連結のドアを開けるわけですが、
いまは昔と比べて、その感触も軽くなり、
開け放しておいて車両移動しても、あとは自動的に閉まってくれます。

昔はどうだったか。
ドアを開けると、いまの時季なら冷たい風が通り抜けて寒い。
当然のように、他の乗客のことを気遣って、
ごめんなさいねってあいさつをも交わすこともあった。
また、重いドアだったし動きも決して快適なものではなかった。
開くだけでなく閉める時間も加わり、
動作が遅く、その分、冷え込むことになり、
余計に気遣ったものでした。


自動的にドアが閉まってくれること自体は、
小さい力で開き、その快適な使い勝手は良いけれど、
これって考え方によっては、
良くないことなのかもしれないと思った。

閉める必要がなくなり後ろを振り向かなくなったし、
開け放しで前進することになり、
あらゆる点で横着で横柄ともいえる行動をとれ、
なによりも他の乗客への気遣いがなくなった。


社会生活を快適に過ごそうとすると、
ちょっとした気遣い、
一期一会、ホスピタリティ(思いやり)が求められます。

気遣いや思いやりといった
生活に潤いをもたらすであろう
大切な精神・こころを、
こうした利便性、快適性と引き換えに
失っていっているように思った。