「札幌」花森安治著「一銭五厘の旗」(暮しの手帖版)から(1)

花森安治著「一銭五厘の旗」(暮しの手帖版)
「札幌」から抜粋しています。

(前略)
 1873年。
(中略)
     *

 そのころ、太平洋の向こう岸、アメリカでは、幌馬車隊が、西へ西へ、ひきもきらず進んでいた。
 行け、西部へ。
 農民たちは、緑なる大地を求めて、家財を積み、家族ぐるみ、ロッキー山脈を西へこえていった。
 いわゆる〈西部劇の時代〉であった。
(中略)
 規模こそちがうが、ほぼおなじ時代に太平洋の向こうとこちらで、新しい土地作り、新しい町づくりがはじめられていたのである。
 しかし、アメリカの西部開拓と、日本の北海道開拓とでは、根本的にちがっているところが、ひとつあった。
 アメリカでは、アレガニー山脈をこえオハイオ河を渡り、ミシシッピーを渡っていったのは、名もない百姓であり、町人であった。
 幌馬車隊を組み、ながいつらい道を耐えぬき、文字どおり、自分たちの素手で大草原をひらき、町を作っていった。
 農場ができ、牧場が作られ、町らしい形ができてから、そのあとに、やっと政府ができ上ったのである。
 北海道では、逆であった。
 みはるかす原野に、まず足をいれたのは政府であった。政府が、最初に札幌の都市計画を作り、道をひらき、家をたて工場を経営し、学校とたて、遊び場さえ作った。人びとは、そのあとで、かき集められ、送りこまれたのである。
 自分の手で、じぶんの汗で、たたかいとった開拓と、おしきせの、官製の開拓とのちがいである。
 札幌の町は、そこへ来て住んだ人間がてんでに作っていった町ではなかった。札幌の町の歴史は、血まめのにじんだ手でひらかれたのではなかった。この町の歴史は、東京で作られた一枚の青写真から、はじまるのである。
(後略)

このこととはさらに逆には、日本とおなじく敗戦国ドイツでは、戦後、人が人間らしく、しあわせな生活を営むためには、美しい自然のなかにあらゆるものが共生していなくてはいけないといった思想から、人工の森に湖、道路、灌漑、いわゆる社会インフラストラクチャー、そして、人のつながり、精神的よりどころになる教会を中心に町づくりが計画、築かれたといった話をドイツにいったおりに教えていただいた。

貧困なこの国、日本のありように憤慨した力が、
いまも、熱すぎるくらい、ぼくのなかで煮えたぎっています。


雪印乳業をおこした黒沢酉蔵さんは、二十歳のとき、東京に失望してアメリカ行きか北海道へ渡ろうかと考え、もっていたお金の制限で、札幌に行き、北海道酪農の父のひとりといわれる宇都宮牧場の宇都宮仙太郎さんをたずね、牛を飼えといわれ、下記、牛飼いの三徳を聞かされ、その日から牧夫になったとか。そのときまで、牛にさわったこともなく、傍らへよったこともなかったとか。

【牛飼いの三徳】
第一に、役人に頭を下げないですむ。
第二に、ウソをつかないですむ。
第三に、自分はもとより、国中の人間の栄養がよくなる。


Boys Be Ambitious!

ぼくは、「少年よ大志を抱け」と教わってきた。
花森安治は、「諸君、理想をつらぬこう」と記している。
同じ意味かもしれないが、後者の方が、ぼくは好きになった。




日記から花森安治のメッセージ、
下記からもなにか手にしていただけるとうれしいです。

2008年03月17日
生きて暮らすこと【全文引用】「家を出る日のために」辰巳渚・著より
http://blogs.yahoo.co.jp/hagetaka0/54107842.html

2008年02月25日
日本は1968年度、農薬総生産量および農薬使用量が世界第1位だった(若月俊一著「村で病気とたたかう」)引用
http://blogs.yahoo.co.jp/hagetaka0/53756939.html