相共に賢愚なこと鐶(みみがね)の端無きが如し...聖徳太子

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昨夜の四天王寺にて下記掲示をみつけました
賢い愚は
 丸い輪に端がないように
  決められません

「相共に賢愚なこと鐶(みみがね)の端無きが如し」聖徳太子

聖徳太子の十七条の憲法

第十条

原文
十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理〓(言偏に巨)能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。従衆同擧。

読み下し
十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。

現代語訳
十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。
十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)-現代語訳付き


写真:昨夜の四天王寺・六時堂、22時過ぎ、静けさを戻して明かりだけが煌々と輝いていました。
境内中央に位置する雄大なお堂で、昼夜6回 にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名があります。薬師如来・四天王等をお祀りしており、回向(供養)、 納骨等を行う当寺の中心道場でもあります。 入口には賓頭盧尊者像やおもかる地蔵が祀られ、独特の信仰を集めています。又、修正会・ 聖霊会などの大法要はこのお堂にて行われます。

昨夜と今夜、千日詣りが、そして、9日から16日まで盂蘭盆会万灯供養法要が催されます。
千日詣り(せんにちまいり)
古来より8月9日・10日は観音功徳日でこの日、一日おまいりすると、千日の間、続けてお詣りをしたのと同じ功徳が授かる特別な日とされています。
四天王寺では、六時堂に両日、開祖聖徳太子の御本地仏であります救世観音(秘仏 試の観音)をお祀りし、ご祈祷を行っています。
午前9時~午後9時

盂蘭盆会万灯供養法要(うらぼんえまんとうくようほうよう)
先祖供養のために、行われる万灯供養。夕刻より約一万本のご先祖の霊名が記されたローソクに火が灯され、 般若心経の読経のなか、僧侶が伽藍内を練り歩きます。