瞬時として留まることのない現実に生きている

ロビンの春の囀りは(中略)多くの小鳥の囀りに、われわれ人間の聴覚を越えた周波数の部分があることが鳥の囀りの録音を解析した結果明らかにされている。したがって、おそらく、ある鳥の囀りは、われわれがそれを聞いているのと同じようには他の鳥たちには聞こえていないことだろう。また、人間の感じる音域には著しい個人差もあれば、年をとれば耳が悪くなるのだから、ある鳥の囀りは、鳥を研究している人に皆等しく聞こえてはいない。

自分の声を録音したものを聞いて驚きます。えっ!ぼくってこんな声!? 人には、こんな風に聞こえているんだって思うと、なんだか悲しく、訳もなく幻滅してしまいます。録音したものを耳で聞く声と、話しているときに聞こえる自分の声、どっちが本当の声って困惑します。

こんなことを考えると、録音したものではなく、実際にいま、歌っている歌手の人たちは、実際の自分のいまの歌を、ダイレクトには聴衆が耳にするようには、自分には聞こえていないことになる。

話は宇宙へ飛び出すが、当たり前のことながら、感動したことがある。ニュートンという雑誌でのこと。オリオン座の構成を宇宙から断面に展望した図が示されていた。それぞれの星が、地球から見ていて、想像がつかないほどの距離関係にある。それをちょうど、透視図のように、平面、たとえば窓ガラスに写した姿でぼくたちは目にして、星を線で結んでできたカタチとしてとらえている。

ぼく自身もそう、何もかもに、裏表があり、時間とともに、また空間ででも、瞬時として静止していない、常に動いていること、いろんなアングルから観察しないと、そのものの実体ないしは本質はわかりようがないんだってことを思い知らされます。わかろうとする瞬間から、もうすでに変化を生じている。こう考えてくると、実体なんて存在しないとも、すべて仮のものといえなくもない。そんな実体をとらえられない時空間のなか、明らかに瞬時として留まることのない現実に私たちは生きているんだって、わかっていなくちゃいけないだろうなって思った。