孤独と携帯電話(一年前の2004.08.07)

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孤独、(一年前の)昨日の文末(http://blogs.yahoo.co.jp/hagetaka0/8654651.html )から引き継ぐことになるだろうか。
こんにち、多くの人が孤独、または自己と向き合っていないような気がしてならない。それを証明するものの代表格が携帯電話ではなかろうか。プラットフォームや電車内、自動車内、自転車走行中、歩行中、地べたに座り込んで…等々いたるところで、握って離せずにいる携帯電話の姿、姿、姿を目にして異様な感じを覚えるのは私だけだろうか。このように認識しているのは携帯電話をもたない私だからだろうか。世界での携帯電話の有り様はどんなだろうか。日本と同じ姿が、世界中に認められるのだろうか。

キツネや悪霊が憑いているがごとく、携帯電話に憑かれているように思う。自己喪失の様相を感じる。横並び、流されやすい、流行やブーム、超有名ブランドを追って止まない、要は自己不在、自己責任、自己管理、危機管理に乏しい日本人特有のように思えてならない。どこでどう道を外してしまったのでしょう。情報リテラシーというかメディアリテラシーが早急に求められるところまで来ているように思う。

この不景気、かつてない経験と位置づけられるだろう社会のターニングポイントに、携帯電話そしてマスメディアの姿勢、存在、影響があまりにも大きいように思えてならない。教育も含め、ありとあらゆるものが深く深くかかわり合って、こんにちの姿があるように思える。

孤独に耐えよう。みんな孤独なんだよ。
自分ひとりで死を迎えるんだ。
しっかり、自分を見つめよう、考えよう。
孤独から逃避しちゃいけない。
所詮、孤独と向き合うことになる。
ならば、いつも孤独を伴侶に、
孤独と仲良しにつき合うようにするのがベストだ。
孤独のなかにこそ、真のしあわせがあるよ、きっと。

目に見えない大きな力にコントロールされている限り、日本国民が孤独と対峙し、自己を取り戻さない限り、この不景気、不況からの脱出はずっとありえないと思う。



倚り合ったり、倚りかかってはいけない。
倚りかからないことで、また新鮮な文体、詩体で話題を呼んだ茨木のり子の詩は、大いに示唆に富んでいると思う。サイトから下記、詩を拾ってみた。ここでいう「湖」は、私が良く言葉にする「孤独」「沈思」「愛」と無関係ではないような気がする。



* * * * *

みずうみ

<だいたいお母さんてものはさ
 しいん としたとこがなくちゃいけないんだ>

名台詞を聴くものかな!
ふりかえると
お下げとお河童と
二つのランドセルがゆれてゆく
落葉の道
お母さんだけとはかぎらない
人間はだれでも心の底に
しいんと静かな湖を持つべきなのだ
田沢湖のように深く青い湖を
かくし持っているひとは
話すとわかる 二言 三言で
それこそしいんと落ちついて
容易に増えも減りもしない自分の湖
さらさらと他人の降りてはゆけない魔の湖
教養や学歴とはなんの関係もないらしい
人間の魅力とは
たぶんその湖のあたりから
発生する霧だ
早くもそのことに
気づいたらしい
小さな
二人の娘たち

   (茨木のりこ「おんなのことば」童話屋)


【写真:日本の伝統色」見本帳側面】(大日本インキ化学)