「1ケタの保険証」より

花森安治(著)「一銭五厘の旗」のなかから
「1ケタの保険証」より

灰色上衣を着た中年男の持ついくらでも金貨が出てくる皮袋と影を交換した男(シュレミール氏)の物語、シャミッソー著〈ペーター・シュレミール氏の奇妙な物語〉という小説のことに触れ、あらすじも紹介されています。

あらすじの詳細は省略して、下記のみ引用します
 灰色の男は、これにサインしたら、影を返そうといいます。「私が死んだら魂はお前にやる」という書きつけです。シュレミールは、はねつけます。(中略)
 この小説は、シュレミールが、作者にあてた手記の形をとっているのですが、それから、いろんなふしぎな事件があって、最後に、愛するシャミッソーよ、この奇妙な物語の保管者として、君をえらぶことにした。友よ、君が世の中に生きていくのなら、金よりも、影を大切にすることを学びたまえ。というところで、この小説は終わるのです。


上述の話のあと、また、一部の引用を
 いずれにせよ、ほくが、何十年もたって、ひょっこりと、この小説をおもいだしたのは、新聞で、山陽特殊鋼が倒産したという記事を読んだときです。
 その記事には、専務が、倒産寸前に一千万円からの社内預金を引きだしていた、ということが書いてありました。そして、この人が、自分の預金を自分が引き出していけないことはない筈だ、と語った談話がそえられていたのです。
 ぼくも、そうおもいます。自分が自分の預金を引きだしたのですから、いけない筈はありません。
 しかし、それは、あくまで、いまの法律や規則にはぶつからない、というだけのことです。
 ところが、法律や規則は、もともと誰か人間が作ったものですから、変えようとおもえば、いくらでも変えられます。
 もし、法律や規則にふれさえしなければ、なにをしてもいいのだったら、法律や規則をかえられるカを持っている人間は、都合がわるくなれば、じぶんのやっていることはかえないで、法律や規則のほうを変えたら、それですむことです。いつでも、じぶんのやっていることは、法律や規則には少しもふれない、なんらやましいところはない、と大きな顔をしていられます。
 じつと、いまの世の中をみていると、しかし、これはなにも、山陽特殊鋼のこの人ひとりに限ったことではない、という気がしてくるのです。

 まえの首相の池田さんが全快したということです。よかったとはおもいますが、じつは、この人の入院の仕方に、ぼくはなにか、やりきれない感じがして、それが、いまだに抜けないのです。
 池田さんは、〈健康保険〉で入院したという話です。そして、その治療法のなかには、保険では認められない筈のものもあった、となにかで読んだおぼえがありますが、ほくがやりきれないと感じるのは、そんなことより何より、健康保険で入院した、というそのことなのです。
 もちろん、池田さんだって、健康保険に加入しているのだから、それを利用したっていい筈だ、ということになるでしょう。いい筈だと、ほくもおもいます。
 ぼくは、ここで、いつか日大の石山教授にきいた話をおもいだすのです。
 教授が若いころ、戦前の青島(チンタオ)の医学校で教えていたときのことです。夏休みに無料診療所を開設することにしましたが、学校に予算はありません。そこで町の金持にたのんで寄附してもらって、仕事をはじめました。
 たくさんの中国人が、行列を作って診療をうけました。ところが、気をつけてみているのに、かんじんの寄附をした連中は、一人もやってこないのです。石山さんは、さては自分たちの治療技術を見くびったな、と少々不愉快になって、この仕事が終ったあとの解散式で、そのことをいってみたのです。
 ところが、相手の中国人は、とんでもないというふうに、
 「私たちだって、診てもらいたかったのです。しかし、毎日たいへんな人で そんなところへ割りこむわけにはいかなかったのです。私たちは、診てもらおうとおもえば、いつでもちゃんとお金を払ってみてもらえます。ところが、あの人たちは、この機会でなければ、お医者にみてもらうことはできないのです」そして、「私たちは小さいときから、ゼニのある者は、ゼニのない人間を助けなければならないと教えられてきました」といったそうです。
 日本でも、ついこないだまで、ゼニのない人間は、みすみす治療法があるとわかっていても、その費用が払えないために、ろくな手当もうけられず、ろくに薬も飲めないで、死んでいきました。
 健康保険という制度は、そういうことのないように、ゼニがない人間でも、ちゃんと医者にみてもらえるように、という精神からできたのではありませんか。
 だいぶまえ、芦屋で開業している古いお医者さんに会ったことがあります。 その人は、憤慨とも慨嘆ともつかぬ語調で、こういったのです。なにしろ、一ケタの保険証で、平気な顔で自家用車を乗りつけるんですからな。
 たいていの会社では、保険証の番号はえらい人の順につけるらしく、だから一ケタの保険証というのは、社長や専務や常務なのでしょう。
 人より高い保険料を払っているのだから、利用しなければ損だ、というのでしょうか。それで、いけないことはない筈だというのでしょうか。
 若い人たちが、美容のために、ビタミンCをもらってゆく、麻雀で夜更しした のでビタミンを注射する、それだっていけないことはない筈です。
 ところが、そんなためもあって、健康保険はどんどん赤字になる、そこで治療費の半額を本人に負担させよう、そうすれば、そんなつまらない利用者は減るだろう、というのだそうです。
 もしそうなったら、いちばん困るのはだれか、考えてみたことがあるのでしょうか。
 一ケタの連中は、たとえ全額負担しても、こまらない筈です。いちばん困るのは、昔だったら、ゼニがなくて治療がうけられなかった人たちです。
 しかし、とくにほくが、池田さんにばかりやり切れなさを感じるのは、首相だったからではなくて、この人が、例の〈人間作り〉をいい出した人だからです。
 人間は作らねばなりません。根性は養わなければならないでしょう。
 しかし、保険料はいくら払っても、治療費が払えるかぎりは、保険は利用しない、それくらいの気持さえなくて、人に人間作りをいい、少年の非行化を憂えることができるのでしょうか。
 それくらいの気持もなくて、大臣や局長や社長や重役をつとめていいものでしょうか。
 いま世の中では、シュレミールではないが、ゼニ金や損得ばかりをいって、そのために、なにかもっと大切なものが平気で売りわたされている、そんな気配がしてならないのです。
 シャミッソーの言葉をもういちど読んでみました。
 愛する友よ。金よりも、影を大切にすることを学びたまえ。
   暮しの手帖79号 1965(昭和40)年5月



後期高齢者医療制度はじめ、私たちの医療に対する姿勢を改めなくちゃ、考えなくちゃって思い知らされました。
タクシー代わりに救急車を呼びつけたり、淋しいからとか仲間がたくさんいるからと病院に行く老人が、ついこの間まで、たくさんおられたかと思います。

豊かさなんてもう古くさい言葉のようですが、その豊かさを手にした反面で、ここに記されているようなことが置き去り、忘れられてしまったのですね。

自分一人では生きられない、助け合い、支え合わなければ生きていけません。
官僚政治として、政治家が法律をつくるのを官僚に委ね、怠けてきた罪は、とてつもなく大きいです。外国では、それは犯罪行為だと聞いたことがあります。政治家が法律をつくらない国は日本ぐらいだって。

民主党自民党にたとえ変わったとしても、官僚、役人が変わらなければなにもかわらないし、より、いいようにあしらわれることは目に見えている。官僚の人事権をどこまで奪えるかにかかっているのでしょうね。混乱を承知で、なにもかも変えられるいいのですが。

ともあれ、なによりも、変えることのできる私たちの意識を変えるのがなによりも先決なことだけは明らかです。