「見よ ぼくら一銭 五厘の旗」花森安治(著)【引用;その2/2】

書く手もにぶるが わるいのは あの
チョンマゲの野郎だ
あの野郎が ぼくの心に住んでいるのだ
(水虫みたいな奴だ)
おまわりさんが おいこら といったとき
おいこら とは誰に向っていっているのだ
といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が
しきりに袖をひいて 目くばせする
(そんなことをいうと 損するぜ)
役人が そんなこといったってダメだと
いったとき お前の月給は 誰が払っているのだ
といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が
目くばせして とめたのだ
あれは 戦車じゃない 特車じゃ と
葉巻をくわえた総理大臣がいったとき
ほんとは あのとき
家来の分際で 主人をバカにするな と
いえばよかったのだ
ほんとは 言いたかった
それを チョンマゲ野郎が よせよせと
とめたのだ
そして いまごろになって
あれは 幻覚だったのか
どうして こんなことになったのか
などと 白ばくれているのだ
ザマはない
おやじも おふくろも
じいさんも ばあさんも
ひいじいさんもひいばあさんも
そのまたじいさんも ばあさんも
先祖代々 きさまら 土ン百姓といわれ
きさまら 町人の分際で といわれ
きさまら おなごは黙っておれといわれ
きさまら 虫けら同然だ といわれ
きさまらの代りは 一銭五厘で来る と
いわれて はいつくばって暮してきた
それが 戦争で ひどい目に合ったから
といって 戦争にまけたからといって
そう変わるわけはなかったのだ
交番へ道をききに入るとき どういうわけか
おどおどしてしまう
税務署へいくとき 税金を払うのはこっちだから
もっと愛想よくしたらどうだといいたいのに
どういうわけか おどおどして
ハイ そうですか そうでしたね などと
おどおどお世辞わらいをしてしまう
タクシーにのると どういうわけか
運転手の機嫌をとり
ラーメン屋に入ると どういうわけか
おねえちゃんに お世辞をいう
みんな 先祖代々
心に住みついたチョンマゲ野郎の仕業なのだ
言いわけをしているのではない
どうやら また ひょっとしたら 
新しい幻覚の時代が はじまっている
公害さわぎだ
こんどこそは このチョンマゲ野郎を
のさばらせるわけにはいかないのだ
こんどこそ ぼくら どうしても
言いたいことを はっきり言うのだ

工場の廃液なら 水俣病からでも もう
ずいぶんの年月になる
ヘドロだって いまに始まったことではない
自動車の排気ガスなど むしろ耳にタコが
できるくらい 聞かされた
それが まるで 足下に火がついたみたいに
突如として さわぎ出した
ぼくらとしては アレヨアレヨだ
まさか 光化学スモッグで 女学生バッタバッタ
にびっくり仰天したわけでもあるまいが
それなら一体 これは どういうわけだ

けっきょくは 幻覚の時代だったが
あの八月十五日からの 数週間 数カ月
数年は ぼくら 心底からうれしかった
(それがチョンマゲ根性のために
もとのモクアミになってしまったが)
それにくらべて こんどの公害さわぎは
なんだか様子がちがう
どうも スッキりしない
政府が本気なら どうして 自動車の
生産を中止しないのだ
どうして いま動いている自動車の
使用制限をしないのだ
どうして 要りもしない若者に あの手
この手で クルマを売りつけるのを
だまってみているのだ
チクロを作るのをやめさせるのなら
自動車を作るのも やめさせるべきだ
いったい 人間を運ぶのに 自動車ぐらい
効率のわるい道具はない
どうして 自動車に代わる もっと合理
的な道具を 開発しないのだ
(政府とかけて 何と解く
そぼ屋の釜と解く
心は言う(湯)ばかり)

一証券会社が 倒産しそうになったとき
政府は 全力を上げて これを救済した
ひとりの家族が マンション会社にだま
されたとき 政府は眉一つ動かさない
もちろん リクツはどうにでもつくし
考え方だって いく通りもある
しかし 証券会社は救わねばならぬが
一個人がどうなろうとかまわない
という式の考え方では 公害問題を処理
できるはずはない
公害をつきつめてゆくと
証券会社どころではない 倒してならな
い大企業ばかりだからだ
その大企業をどうするのだ
ぼくらは 権利ばかり主張して
なすべき義務を果さない
戦後のわるい風習だ とおっしゃる
(まったくだ)
しかし 戦前も はるか明治のはじめから
戦後のいまも
必要以上に 横車を押してでも 主張を
主張しつづけ その反面 なすべき義務を
怠りっぱなしで来たのは
大企業と 歴代の政府ではないのか 

さて ぼくらは もう一度
倉庫や 物置きや 机の引出しの隅から
おしまげられたり ねじれたりして
錆びついている〈民主々義〉を 探しだ
してきて 錆をおとし 部品を集め
しっかり 組みたてる
民主々義の〈民〉は 庶民の民だ
ぼくらの暮しを なによりも第一にする
ということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら
企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら
政府を倒す ということだ
それが 本当であろうとなかろうと
今度また ぼくらが うじゃじゃけて
見ているだけだったら
七十年代も また〈幻覚の時代〉になってしまう
そうなったら 今度はもう おしまいだ

今度は どんなことがあっても
ぼくらは言う
困まることを はっきり言う
人間が 集まって暮すための ぎりぎり
の限界というものがある
ぼくらは 最近それを越えてしまった
それは テレビができた頃からか
新幹線が できた頃からか
電車をやめて 歩道橋をつけた頃からか
とにかく 限界をこえてしまった
ひとまず その限界まで戻ろう
戻らなけれぼ 人間全体が おしまいだ
企業よ そんなにゼニをもうけて
どうしようというのだ
なんのために 生きているのだ

今度こそ ぼくらは言う
困まることを 困まるとはっきり言う
葉書だ 七円だ
ぼくらの代りは 一銭五厘のハガキで
来るのだそうだ
よろしい 一銭五厘が今は七円だ
七円のハガキに 困まることをはっきり
書いて出す 何通でも 自分の言葉で
はっきり書く
お仕着せの言葉を 口うつしにくり返して
ゾロゾロ歩くのは もうけっこう
ぼくらは 下手でも まずい字でも
じぶん言葉で困まります やめて下さい
とはっきり書く
七円のハガキに 何通でも書く

ぼくらは ぼくらの旗を立てる
ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは
赤ではない 黒ではない もちろん
白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ
ぼろ布端布をつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を
物干し台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ
ぼくら こんどは後へひかない

(8号・第2世紀 1970((昭和45年))10月)







しっかり読んでみて!
滑稽なくらい いまと変わらないでしょ!
38年近く前に記されたんだよ!
私たちが変えなくちゃ 私たちの社会変わらないんです!



下記サイトも参考にしてみて・・・
寄らしむべし知らしむべからず
http://www1.odn.ne.jp/chuuwa/book/yorasimubesi.htm