「カタカナ語」私見(2003.02.19)

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カタカナ語に、私は、この国のアイデンティティ欠如をうかがいみる。 また、モノを輸入して、その精神を輸入し得ないでいる国民性を懸念する。

インターネットに象徴されるように、グローバル化した今日、大いに世界を、人類を、そして、地球を私たちは知ることとなった。他国の言葉、その意味する精神は多種多様である。それを受け入れられない、そこに想いを至らしめずには済まされない時代になっている。

従来には、存在し得なかった日本語、そして、日本になかった考え方、学び採り入れるべき精神がある。国際社会が一致協力して解決すべき課題がある。その解決のためには、いいものをどんどん採用すべきだ。

ただ、カタカナ語、その精神が体内に消化されずに氾濫しているのはいただけない。私もずいぶん昔から、そのことには警鐘を鳴らしてきたし、その意味するところを知らずに安易に、いわゆる言葉のファッション、恰好いいというだけで、曖昧なまま使用され続けてきたことに憤りを感じる。他国の考えを学ぶことに、もっと勤勉であるべきだ。

そこで、求められるべきは、カタカナ表記ではなく、外国語表記であり、その精神、心なのだ。

カタカナ語と称されるものに類似して、危惧されることが多々ある。言葉の周辺が顕著だが、言葉だけでも、日々抱いていることを列記すれば、
・語尾上げ言葉
・「…じゃないですか」「…っていうか」言葉
・同一抑揚(イントネーション)
・語尾を長くのばすこと
・マニュアルの棒読み(感情表現の欠如)
・敬語・謙譲語の妙な(誤った)使い方
・また敬語の多用
・曖昧な表現、断言できない表現
等々枚挙にいとまがない。

確固としたアイデンティティがあれば、これらすべての事象は滑稽であり、少したりとも容認されるべきものではないと信じる。

コンピュータで、プログラミングすればいい学習になる。ほんの少しかじってみたが興味深い。定義づけ、そして結論から入っていく。それから条件へと続く。あいまいな表現は使えない。断定してやらないと先に進まない。もっとも、感情移入の介在しない世界なので比較するには不相応なことは承知しているが、参考にはなるだろう。

建前ではなく、本音で話し合える社会を築きたいと思っている。

その実現のためには、人は人に寛容で、なによりも大いなる愛、慈悲の心をもち合わせていなければならないだろう。

「罪を憎んで人を憎まず」に似て、論戦しても人を傷つけない精神が培われなければならないと思っている。

カタカナ語は、どこまでいっても日本語のカタカナなのである。

その言葉の母国語、native languageで表出されなければならない。


(2003.02.19)



【写真:私の本棚スナップ】